「あの、遺書を書いてもいいですか」
「……は?」
あまりにも突拍子もない少女の言葉に、拳銃を持った男は思わず目を丸くして間抜けな声を漏らした。
小さな体をまっすぐこちらに向けることもせず、口に入れたままの晩飯をもぐもぐと飲みこんでから放った言葉がこれだ。
少なからず緊張していた男は自分の肩から力が一気に抜けてしまったことに気がついた。
そもそもは、つい数秒前に男がこの家に乗り込んだことから始まる。
目的は強盗だ。知り合いから奪い取った拳銃に六発の弾が詰められており、必要ならば乗り込んだ家にいる人間を全員撃つ気でさえいた。
どんな家でも良かった。どんな金額でもよかった。少しでも足しになれば満足だった。
住宅街のマンション。それほど不自由もしておらず、かと言って裕福そうでもない。街の喧騒から少しだけ離れた位置にあったから、このマンションを選んだ。
夕方に階段から様子を窺い、制服姿の少女が一人、一室に入るのを見た。鍵を閉める硬い音は響かない。しばらくそのまま待機し、誰も出入りしないことを確認した。
ここしかないと思った。
かくして、意気揚々と銃を構えながら入ったそこには、テレビもつけずに作り置きされていたらしい晩飯を咀嚼する少女が一人いたのだった。
固まったままの男に、どうしたのだと言わんばかりの顔で少女は首を傾げた。
「あの、すみません、遺書を」
確認するようにもう一度少女は遺書を書きたいと申し出た。その言葉にはっと男が我に帰る。
男は家に乗り込んでから言葉を発していない。要件も言っていない。銃を構えてリビングへと突き進んだ。ただそれだけだった。
普通、命乞いをするものではないだろうか。そうでなくても、要件を呑めば自分の命は助かるだろうか、などと考えるものではないだろうか。
それを真っ先にこの小さな少女は遺書を書きたいと言い出した。
あまりにも予想外の展開に、男は自分が酷く狼狽していることに気付いた。さっきまで残忍な犯罪を計画していた頭が、すっかり小ざっぱりしている。
尚も黙りこくる男をいよいよ不審そうな少女の目線が貫く。大きな瞳を困惑の色に染めて男の言葉を待っていた。
何か口にしよう。金を出せ、か。生きたくないのか、か。親はいないのか、か。
思考を巡らせば巡らせる程、どんどん自分が間抜けな立ち位置に追いやられていく事態にどう対処すればいいのかわからない。
やがて男はたっぷり数分の時間を取ってから、「どうぞ」と、低く呻った。
「すみません、我儘を言ってしまって」
男の立っていたすぐ横にあった戸棚から少女は簡素なレターセットと油性のボールペンを取り出し、苦笑しながら謝った。
つくづくやり辛いな、と男は顎を撫でた。冷静な少女が筆を走らせている間、いつまでも興奮気味の顔で立ち拳銃を構える自分の姿を想像すると些か恥ずかしいものがあったので、男は少女から少し離れた位置に座った。
どうも滑稽な状況だと溜息をつく。
その溜息をどう捉えたか、少女がちらりとこちらに目線をやって、再び「すみません」と詫びた。
「一応、俺の特徴とか、そういうの書かれると困るんだけど」
「嗚呼、はい。わかっています。書くつもりは、ありません」
「そう」呟いて黙る。なんて間の抜けた申し出をしてしまったんだろう。
目の前の少女は頭が可笑しいのだろうかと思った。それとも、今の女子高生の生への執着など皆この程度のものなのだろうか。
手持無沙汰で仕方なく、男はまた口を開く。
「家族と仲が悪いのか」
「いえ、両親は忙しいですけど、とてもよくしてくれていますよ」
少女は笑う。
「友達がいないのか」
「そうですね、多くはありませんが、皆といると楽しいです」
少女は笑う。
「彼氏とうまくいっていないのか」
「まさか。私をとても大切にしてくれていますよ」
少女は笑う。
「勉強ができないのか」
「ううんと、さすがに首席は無理ですけど、満足してます」
少女は笑う。
「死にたいのか」
「ええ」
少女は笑った。
わからなかった。
男にはわからなかった。少女の考えていること。感じてきたもの。見ている世界。
不自由のないような見た目をしながら、一体どうして死にたいと言うのだろうか。
人は笑いながら死にたいと即答するものなのかと、眩暈さえ覚えた。
静かな少女は綺麗に折りたたんだ紙を便箋に仕舞い込み、茶碗の隣に添えた。
男は内容を見ていない。不躾に覗いてみてもよかったが、この少女が自分のことを書くとは思えなかった。確信があった。
少女が体をこちらに向ける。
ありがとうございます、と、か細く啼いた。
急に男は恐怖を感じた。
今から自分は人を殺すのだと強烈に感じた。正面に座る小さな頭を撃ち抜き、金とカードを奪って日本中を逃げることになるのだと、ようやっと頭が理解した。
いや、理解はしていたのだ。ただ、現実味を帯びていなかった。
少女のことだ。脅さずとも金の保管場所くらいすらりと吐くだろう。
だがもし生き残したとして、警察に強く詰め寄られた十代半ばの少女が自分のことを話さないとどうして考えられるだろう。ましてやそんな義理はない。
男は拳銃を強く握り締めた。
どこまでもわからない少女だった。もしかしたら、こういうことを或る程度期待して少女はいつも鍵を閉めていなかったのかもしれない。
だとしたら自分はなんて都合のいい道化なのだ。
不自由のなさそうな死にたがりをまんまと殺し、自由のない身を更に縮こませて生きていくなんて、まったく笑えた冗談でもない。
「ごめんな」
ゆっくりと腰を上げて男は少女を見下ろした。
構えていた拳銃を見つめて、嗚呼なんだ、と男は笑った。
「弱く生きよう」
少女がはっと目を見開く。
息を呑むのがわかった。初めて子供らしいなと思えてひどく微笑ましい。
まるで今から殺されるような顔をしていた。
それから何度か口をごにょごにょと動かしては目を右往左往させて、ぎゅっと一旦、口を噤んでから小さな声で話す。
「お元気で」
「君も」
顔を伏せて少女は泣いた。
両親が帰ってくる前に泣き止んでるといいけれど。そう考えて男は苦笑いを洩らしながら家を去った。
初めから、拳銃の安全装置は外されていなかった。
2013'04'14