階段を下るとすぐそこに、見慣れた茶髪頭が見えた。
少しばかりのワックスを効かせたそれは、私の声に反応してくるりと反回転する。
「坂上」
名を呼べば、ことりと首を傾げた。
端正な顔立ちに似合わず、嗚呼、なんと可愛らしい反応をすることだろう。
彼の頭一つ分違うはずの背も、踊り場から見下ろす今は自分よりも低い位置にあるから、何気ない動作の一つ一つが余計に愛らしく思えた。
一週間続いた春季補講も今日が最終日だった。
冷たい空気が一変し、暖かい春の陽気へと移ったこの時期に、教室に籠って数字を書き写したり異文化の言葉を聞き流すばかりの作業は些か風情に欠けると、坂上は口を尖らせていたものだ。
私はといえば、これと言った不満もなく、しかし眠い目を擦りながら午前中すべての授業を必死で頭に叩き込もうとするほど熱心ではなかった。春眠暁を覚えず、とは、成程よく言ったものだと思う。
二つボタンを開けたカッターシャツの隙間から入り込む風が、とても心地良い。
だらしなく着けた制服のリボンがゆらりと静かに揺れていた。
教室の窓から見える空は青く青く、けれど夏の真っ青なキャンバスとは何処か違って見えた。
クラスメイトたちの喧しい笑い声も、先生たちのわかりづらい説明も、私の細やかな何とも言えない心情の一部分も、全てが空気に溶けて暖かな熱に変換されているような気さえする。
ふくふくとした桜のつぼみは、もう咲いてしまっているのだろうか。それはもしかしたら、私たちの全てを溶かした熱によるものなのではないだろうか。
咲かないでいて欲しいな、と、思った。
「坂上、花見に行こう」
「花見?今から?」
「そうだ、今からだ」
スカートを翻しながら勢いよく踊り場から飛び降りる。
勢いをつけて一気に坂上と並んだ。思い切り着地した足の裏は、上靴越しに容赦なく強い衝撃を伝えられて痛む。
唐突に跳ねた私に坂上が驚いて間抜けな声を出したのを聞いた。見ると、そこにはいつも通りの位置に坂上の頭がある。私の上。少し見上げる位置。
女子じゃないよな、と呆れて溜息を吐かれたのを無視して、半ば早足になりながら靴を履き替え、正門をくぐり、駅へと急いだ。
「なんで俺たちの学校には桜がないのかね」
「さあ、校長が梅でも好きなんじゃないの」
今にも発車せんとする特急電車に二人して駆け込み、予め駅前のコンビニで買っていたパンを頬張った。
電車の中はいつにもまして人で溢れ返っていた。どうやら花見をしようと思い立ったのは、自分たちばかりではないらしい。
毎年三月の下旬に咲く桜は、おちおちしているとすぐに散ってしまう。
四月に入ればあれよあれよと瞬く間に消えてしまうのだ。
他の何よりも儚く散ってしまう桜が、どうにもこうにも私は綺麗だとは思えなかった。
そういえば、家の近所に立っている桜は、去年雨の影響でつぼみが腐ってしまっている。
弱いな、と思うのだ。それなのに人は好きなのか、と不思議に思うのだ。
「坂上」
甘いコーヒーの香りが鼻腔を擽る。正面で、坂上がストローを咥えていた。
私に呼ばれて窓の外にやっていた目線をちらりとこちらに向ける。首をことりと傾げる。
地下を走る電車は、窓に何も映してはいなかった。
「坂上は、桜が好きか」
じゅるり。最後の一滴を飲みほしたのだろう。下品な音が響く。通路を挟んで右側に立っていたお姉さんが、少し顔を顰めたのを見た。
それでも坂上はストローから口を離そうとはしなかった。子供のように噛んでは、また先程のように瞳を私から窓へと戻した。
暗く、地下鉄の壁が流れて行く。
あと一駅通り過ぎれば、路線は地下からトンネルを抜けて、地上に出るはずだ。
そこに私たちの目的地がある。電車からでも、桜は見えるだろう。
坂上はまだ答えない。桜は好きか。坂上は答えない。
一つ、駅を通り過ぎた。
地下独特の地鳴りのような音が、だんだん明るさを帯びていく。
「好きだよ」
ふいに坂上は言った。
私の方に目を向けて、にこりともせずに坂上は言ってのけた。
車内の温度調節は暑く、ブレザーの下、セーターとカッターシャツの間にじんわり汗が滲むのがわかる。
そうか、と、小さく私は呟いた。窓のほうに目をやると、丁度電車がトンネルを抜け、地上を走り始めた。
車内アナウンスが鳴り響く。降車駅が近づいている。
窓から見えた桜たちは、虚しいくらいに満開だった。
2013'03'25