短編

深夜カイコウ


 夏の夜更けというのは心地よい肌寒さと、生温く湿った空気が全身に纏わりつく。そのじんめりとした感覚を鬱陶しいと感じる人もいれば、丁度よいと笑う人もいる。沢村はそのどちらでもなく、ただふらふらと夜の散歩を楽しんでいた。高校生の男子一人が深夜ふらりと田舎町を散歩しているところで家族が騒ぐはずもない。
 木造建築に囲まれた住宅街ではコンビニエンスストアなどという二十四時間営業の便利な万屋へは徒歩十五分はかかり、しかしこれといって向かう場所もなく散歩をするのは腰が重い。夏休みは週刊少年誌の立ち読みをするという口実で毎夜駅前まで歩くのが沢村の日課になっていた。毎日少しずつ読んで、気が向いたら出掛けにポケットに突っ込んだ少ない小銭でデザートなんかを買ってまた家へと向かう。そのたった一時間程の時間が小さな楽しみであった。


 夏休みも中盤に差し掛かってきた今日。いよいよ宿題を始めないといけないなと一人ごちながら、夜道を歩いていた。宿題を始めると始業式が近づいてくるようで、沢村は厭なのだ。自然といつもよりも歩調が緩くなる。無意味に空を見上げたり、川辺の柳を目で流しては溜息をついた。踏切を渡り、橋を渡り、緩やかな下り坂に差し掛かる。ふと右手の公園が目に着いた。たいして大きくもない公園だが、休日は昼間になると幼稚園児の手を引いて町の父母たちがよく遊びに来ている。沢村自身、幼少の頃この公園で遊んだ記憶があった。公園の脇にはブランコや鉄棒があり、その少し離れた場所に砂場と滑り台が設置されている。それよりも目を引くのは公園中央にある大木で、その木を囲むように木製の椅子が作られているのだ。普段は疲れた学生が休憩に座ったり、我が子を見守る親たちが腰かけるそれ。だが、今回は違った。あろうことか女子高生が座っていたのだ。夜中に一人、制服姿の少女はぽつりと座って、よくよく見れば左手には缶珈琲が握られていた。
 おいおいと沢村は思った。慌てて公園へと入っていく。こんな時間に、自分のような面白みのない男がぶらぶらしているのと、制服姿の柔い少女がふらついているのとでは訳が違う。気付けば軽く駆け足になっていたようで、突如目の前に立った同年代風の男に驚いたのか、少女は少しだけ目を見開いて顔をあげた。肩にかかるくらいの真っ直ぐな黒髪を持つ、色白の綺麗な少女だった。細い首や腕が一瞬この世のものではないように思えて沢村は背筋が凍ったが、見開かれたその目と左手に握られた微糖の珈琲が紛れもない現実だと教えてくれる。

「何やってんのこんな時間に」

 いきなり走り出して妙に疲れてしまった。沢村は、大きく息を吐きながら少女の横に腰かけた。初対面の、しかも自分とたいして年齢も変わらないような男に注意されたのが頭にきたのか、少女はその端正な顔を少しむっとさせた。

「貴方だって、変じゃない」

 そっぽを向いたのを良い事に、じろじろと観察してみる。成程彼女の制服、何処かで見覚えがあると思ったら、三つ駅の離れたここらじゃ有名な進学校の制服だった。鞄も持っていないということは、家が近所なのだろう。恐らく一度家に帰った後、ポケットに小銭だけ入れて出てきた。なんだ自分と似たようなものじゃないかと沢村は一人可笑しくなって笑う。つられて少女が振り返った。その眉根は寄せられて、身は少し引いている。突然、横にいる男が笑いだすものだから不気味で仕方ないのだろう。彼女の反応で我に返ったのか、沢村は口角を下げて誤魔化した。俯いて、眼鏡を直し、苦し紛れにワックスのきいていない髪を弄ぶ。そんな沢村の様子が可笑しかったのか今度は少女がぷっと噴き出した。口元に手をあててひとしきり笑い、はあ、と息を吐いて整えた。湿気た沈黙が二人を包み、先に口を割ったのは沢村だ。

「コンビニにね、行こうとしてたんだよ。趣味なのこればっかりは」
「深夜徘徊が趣味?ほんとに不気味ね」

言ってから、他人のことは言えないわね、と少女は笑った。初め見たときの細くて寂しい印象よりも遥かによく笑う女の子だった。なんだ明るい子じゃないか、沢村はほっとした。歩いている途中に彼女を見たときは幽霊なのではないかと、心臓が跳ねたものだ。
 それから二人は同い年だということと、お互いの学校を確認し合った。やはりあの進学校の生徒だった。進学校はどうやら沢村の行くような平均より少し下のような学校とは宿題の量が天と地の差らしく、やってもやっても終わらないのだという。朝は日の出と共に暑くなり、夜には遅くならなければいつまで経っても風の吹かないこの季節に、昼は学校に通って、それは大変なのだろうと沢村は同情した。机の上に散らかした、まだ一つも手のつけていないプリントたちを、彼女なら一日で仕上げてしまうのではないだろうか。
 そうか、それで息抜きに公園で散歩をしていたのか。沢村は合点がいった。とても頭が良いと言える自分ではないが、少なからず共感する部分もあるからだ。

「進学校は厳しいね」
「そっちの学校だって色々あるでしょう。進学校だけが厳しいわけじゃないわ」

 細められた目に思わず息を呑んだ。この少女はまるで見透かしているようにものを言う。口調も、言葉も、全てを分かり切ったような言い方だった。しかし沢村も嫌ではない。これが年上の社会人や年下の中学生なんかだと話が違っただろうが、同じ年の少女だからこそ許される言葉の数々だ。
 沢村は眼鏡の横についた傷を撫でながら、左手の甲についた絆創膏を弄った。夏休みに入る前、クラスメイトと少し喧嘩をしてしまったのだ。けして短気ではないはずの沢村だが、後悔はしていない。見れば、少女も缶珈琲を持つ指先に絆創膏を巻いていた。

「指、痛そうだね」
「貴方のほうが傷が多いと思うけど」
「それもそうだ」

沢村は空を見上げて笑った。点々と光る星は雲に隠れてほとんど見えない。月だけが辛うじて顔を覗かせていた。


 再度、ふいに訪れた間に、今度は少女が話しだす。だがそれは話しかけるというような口調ではなく、もっと独り言に近い、吐き出すようなものだった。

「ちょっと思春期っぽいこと言っていい?」

彼女は横目で沢村を見てから自嘲気味に笑んだ。

「あたしねえ、死んでるのよ」

右手でくしゃりと前髪を潰し、すぐに手櫛で直す。また掴んでは、直していた。

「朝の七時半に家を出てから、夕方の五時半。家に入るまで。学校という囲いの中であたしは死んでるの」
「十時間も?」
「そう」

 今度はこちらを見なかった。膝についた肘で頬杖をつきながら、まっすぐに、何処も見てはいなかった。

「十時間も」

繰り返す声は掠れていて、しかし消え入るような儚さまでは持ち合わせてはいない。彼女は弱さは見せても、脆さまでは見せなかった。閉じた瞳で外界からの光を一切遮断して彼女はくすりとも笑わなかった。薄く瞼を開いたなかから覗くその目は公園の電灯の光がちらついている。沢村は眼鏡のつるを少し持ち上げて、少女を見ることをやめた。
 長い長い沈黙だった。ポツポツと灯りの灯っていた家も知らぬ間にほとんどが消えていた。辺りは暗さを一層増して、車の通ることのない町は静けさを極めた。不思議なくらい人通りの少ない夜だと沢村は思った。いつもならまだ酔っ払ったサラリーマンや夜遊びの大学生なんかが歩いていてもおかしくないのに。それとも感じているよりずっと長く居座ってしまっていたのだろうか。公園の隅に設置された時計は傍の電灯が切れていて、ただ黒く丸い影しか映していなかった。
 沢村はかける言葉が見つからなかったから黙りこんでいたわけではない。少女を憐れに思って同情の沈黙を保っていたわけでもない。ただ少女のその言葉を聞いてから、少女のことなどとうに頭の片隅へと追いやってしまっていたのだ。いや、追いやるというよりは、自身と少女が重なって、うまく思考を巡らすことができなくなってしまった。
 口を開きかけてはまた閉じる。何度か繰り返し、やっと声を出すことに成功する。

「俺も死んでるよ」

 いつの間にかレンズに付着していた指紋の痕をシャツで拭きとる。執拗に綿の布を擦らせて、あやふやな視界で隣を向いた。近くにいるはずの彼女の顔はぼやけて、表情はよく見えなかったけれど、少なくともこちらに顔を向けていることだけは確認できた。

「でも今は生きてる」

電灯の光に照らして、もう汚れが付いていないか確かめてからかけ直す。先程よりも幾分綺麗になった枠の中で、彼女が虚を突かれたような顔をしていた。会った直後のときみたいに真ん丸く見開いていた目は、やがて細められて、ほんの少しだけ赤みのさした頬に似合う、穏やかな笑顔を見せた。沢村も笑った。
 少しだけ勢いをつけて立ち上がり、尻を払って伸びをする。

「さあもう帰ろう。俺も今日はコンビニはいい」

ええそうね、と少女も立った。二人で肩を並べて歩き出す。頭一つ分違う高さが妙に心地よかった。少し歩いて、ざりざりとした砂の音がこつこつというコンクリートの音に変わった頃、一人分の音が止む。釣られて振り向くと、携帯を片手に少女が小首を傾げていた。

「アドレス。聞いてもいいかしら」

 赤外線の受信画面を開けているのだろう。ちらりとこちらを見たあとすぐ液晶へと視線を落とす。画面から放たれた光が白い陶器のような彼女の顔を明るく照らした。
 ぼうっと見つめてから、緩やかに唇を開く。

「ごめん、携帯壊れてるんだ」
「あぁ、修理中なの?」
「いや、もう直らない。新しいのを買いに行こうと思う。そうだな、明日にでも」

彼女は堪らなくなったように吹き出した。不便ではないの、と片手を口にあてて笑っていた。沢村もぎこちなく笑って、眼鏡の傷に触れた。

「じゃあ私たちこれきりかしら」

 言って、少女が携帯を閉じた。
 閉じた音がやけに大きく響くな、と思った。

「そうだね」

 街灯に纏わりついた蛾を目で追いながら呟く。じっとりとした空気が肌に触れて、汗ばんだ手をポケットへと突っ込んだ。左手の絆創膏はもう、これで見えなくなった。

「俺の携帯がクラスメイトに壊されずに済むようになったら、また会おう」
「じゃあ、私の名前がクラスメイトに呼んでもらえるようになったら、また会いましょう」

 笑い、空の缶をごみ箱へと放り込んで、彼女は坂を下って行った。やがて大きなマンションへと吸い込まれるように消えて行くのを見つめて、沢村も坂を登るために足を出したのだった。



2012'06'08
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