短編

もういいかい


彼女が私に囁く言葉はいつでも短い。
淡々と、必要最低限の言葉だけを私に告げる。
たとえば、「何か食べたい」だとか「お腹が痛い」だとか。
生きていくうえで必要なことしか話さないから、挨拶もない。
だが彼女はある日「ねむい」と呟いた。
消えかけそうな声で、はっきりと。
いつもなら眠かったら無言で眠る彼女が、ねむいと言ったのだ。

私は喜んだ。
だって彼女がねむいと言った。
ねむい、と。ねむたい、と。
そして「寝たい」と。




「やっと言ってくれたぁ。」

私は歓喜を隠せず微笑む。
いつも私に何も言わずに寝ちゃうから、私はさみしかった。
必要最低限の言葉しか言わないから、もっと喋ってほしくて。
いっぱい殴ったし蹴ったけれど、その形のいい唇から漏れるのは短い文章ばかり。
それは拒絶の言葉であり、要望であり、感情が入っていなかった。
だから今日はいっぱい叫ぶようなことをしたし、いつもより酷いことをしてやったらやっぱり効果あり。
快感の入り混じった甘い声をあげながら、彼女は初めて私の目の前で泣き叫んだのだ。
それが美しくて、美しすぎて、思わず目を細めてしまう。
だからたくさん痛い目にあわせてやると淫らな格好でのたうち回る彼女が見れた。

私が満足した後に、彼女がつぶやいたのだ。 「ねむい」
でも私が言ってほしい言葉はそれじゃない。

きっとすごく眠いんだろうな。
それっきり目が虚ろで、身体はピクリとも動かない。
サラサラした彼女の髪を触り、それから頬、首、胸、腹。
確かめるように触れていくと、いつもより肌が冷たいことに気づく。

「疲れたんだね。」

なんだか運動会のあと疲れて眠る子供のようで、微笑ましい。
最後にいつもみたいに赤い唇にキスをして私は彼女を抱きしめた。

私は昔、彼女とかくれんぼするのが好きだった。
けれどもいつも私が鬼でつまらなくて。
「もういいかい」と聞くととっくに隠れたくせに「まだだよ」と無邪気に答える彼女が可愛かった。
そして一通り私を困らせた後、自分が疲れるとわざと見つかりやすい場所に出て「もういいよ」と言うのだ。
小憎たらしかったけど、それで私も満足できたからいい。




ひんやりと静まり返った部屋で、静かに聞く。


「もういいかい」


まだだよ、と囁く声が、した。



2009'05'24
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