鈴の音が鳴るような声を聞いていた。
夏のじっとりとした暑さに、不格好になることも気にせず背を丸めて歩いた。全身から噴き出る汗を拭うのも面倒くさく、制服は執拗に肌へ張り付いて離れない。目の前を特急電車が颯爽と駆け抜けてゆく。反対側のホームにはスマートフォンを片手にした女子高生が、辛うじて穿いています、といった短いスカートから滑らかな足を剥き出しにして立っている。ネクタイもリボンも着いていない開けた胸元は涼しげだ。膝丈まで伸びた自分の重苦しいスカートと、かっちりとネクタイを締めた首元を見下げて思わず溜息をついた。ふくらはぎを包む黒いハイソックスでさえ、鬱陶しく感じた。昼過ぎのこんな時間に制服で駅に立っているあたり、目の前の女子高生も、定期考査中なのだろう。学校によってはもう終盤だろうか。やっと一日目が終わったばかりの私は、勝手に妬ましげな思いを向ける。丁度反対ホームに電車が止まり、女子高生を隠し、発車の頃には消えていた。
夏は嫌いだ。蝉の声は苛立ち、太陽の日差しは五月蠅く、生温い水の中で私は身動きの取れない死にかけの虫同然だった。突然降る雨も好きじゃない。排気ガスと溶け合う雨上がりの匂いは不快さを増させる。早く夏休みになれば良いのにと思った。夏休みは、一日中クーラーを効かせて眠るのだ。一歩も外へなど出たくはなかった。
電車を二度乗り換えて目的の駅に降り、やっと家が近くなろうとしたとき、ふと妙な既視感のようなものを感じた。商店街のざわついた雰囲気の真ん中で、ただ一人私だけが耳を澄まし目を凝らして立っている。動き続ける人々の中、動かない私が異質だった。おもちゃ屋で子供が騒ぐ。八百屋で店主が団扇を煽ぐ。ハンバーガー店に学生が入って行く。床屋で女性が箒を掃く。カップルが二人、楽しそうに横を通り過ぎる。
汗が一滴、髪を伝って鎖骨に垂れた。私の立っている延長線上、数メートル先に、黒いランドセルを背負った小さな少年が立っていた。こちらを向いて、動かずに立っていた。
思わず、あ、と声が出た。瞬間、少年は踵を返して歩き出す。妙だった。声が届く距離ではなかった。何故か、引っ張られるように少年を追いかけた。するすると人の間を抜けてあっという間に商店街を抜け出して行く。歩幅も歩く速さだって、こちらが負けているはずはないのに、常に見失いそうになる。いつの間にか、駆け出しそうなほど早足になっていた。商店街を抜け、道路を跨ぎ、裏通りを進む少年も、いつしかランドセルの中身をがしゃがしゃ揺らして走っていた。側面にぶら下がった御守りが、涼やかな鈴の音を鳴らしている。可笑しな気分だった。私は何故目の前の少年を追いかけているのか。私は少年のことを知っているのだろうか。少年は、私のことを知っているのだろうか。暑さで靄の掛かった思考の中、ふわふわと取り留めのないことを考えた。心なしか視界まで歪んできた気がする。しかし着実に少年との距離は縮んでいることにふと気付いた。上下に揺れるランドセルは、足を動かす速度を上げればもうすぐ手が届きそうである。太陽の光をめいっぱい吸い込んで、熱く焼けた黒に触るのは些か躊躇われた。今通っている住宅街の裏道を抜ければ、曲がったところに踏切がある。そこで声をかけようと決めたとき、丁度少年が道を抜けて踏切の方へと曲がって行った。幸い、先程から警報機は鳴り続けている。少年は遮断機の前で立ち往生していることだろう。少し気の抜けた思いで少年のいるほうへと足を向けた。吹いた風が心地よく額を冷やす。
しかし、そこには誰もいなかった。黒いランドセルも小さな背も、何処にも見当たらない。踏切を通る以外に行ける道はなく、まさかと思い遮断機の向こう側を見ても少年の後ろ姿はなかった。大きな音をたてて目の前を電車が突き抜ける。警報機は止み、遮断機が上がる。よく理解できないまま、ぼうっと一歩先へ出ようとしたとき、独特の感触を踏んで足を止めた。恐る恐るローファーの底を窺えば、羽化に失敗して落ちたのであろう。半透明の殻から身体の大半を出したままの、幼い蝉の白い肉をぐしゅりと潰していた。
少年は次の日も私の前へ現れた。その次の日も、学校帰りに毎日現れた。出会う場所は違っており、だが途中からは必ず同じ道に入って行く。そして、踏切の前で消えるのだった。いつしか私は考査最中にまでも少年のことを考えるようになっていた。家に帰って勉強をしていても、頭をよぎるのは少年の黒い後ろ姿と、鼓膜を揺らす小さな鈴の音だけだった。少年は、きっと私を知っているのだろう。私をからかって遊んでいるのだろうか。私には覚えがなかった。あんな小さな、年下の友人なんていなかった。誰かの弟だろうかと思ったが、生憎、弟のいる知り合いは持ち得ていないのだった。
考査最終日、朝から雨が降っていた。風はなく、じんめりとした湿度だけが上がっていき、気分をいっそう曇らせるような天気だった。ここのところ快晴続きであったので、人によっては恵みの雨だと喜ぶ人もいるのだろうか。傘からはみ出したスクールバッグが角を濡らし、履き古したローファーから水が染みているのを感じる。自然と眉間に皺が寄った。帰りの電車に揺られながら、さて、少年はこんな天気にも健気に私を待っているのだろうと考えてなんともいえない心地がしていた。
しかし予想とは裏腹に少年はいなかった。商店街を通っても、裏道を通っても、住宅街を通っても、少年は何処にもいなかった。ぱたぱたと傘に落ちる雨に、笑われているような気になった。誰に向けるでもない一抹の恥ずかしさを感じながら、視線を爪先に落として歩を進める。いつもより静かな踏切の前、ふと足元に落ちている物があった。御守りだった。水色の刺繍が施され、紐の付け根に鈴が付けられた子供向けの御守りだ。少年のランドセルに付いていた、御守りだ。雨で汚れたそれを裏返せば、油性ペンで書かれた文字が滲んでいる。平仮名で、つかさ、と書かれていた。
それから一週間、毎日が雨だった。とうとう終業式を終え、大掃除をし、埃臭い髪を払ってそそくさと帰路につく。雨が降り出してから、一度も少年は現れなかった。蒸し暑い空気が余計に汗を湿らせ、私をどんどん重くしていく。エレベーターの壁に身を預け、閉じた傘の先に水たまりが出来て行くのを見つめた。五階で降りて真っ直ぐ進み、突きあたりにある自分の家の扉を開く。ベージュの低いヒールの靴が綺麗に並べられている。リビングに入れば、母が昼食を作りながら「おかえり」と笑った。ぐつぐつと鍋の中身が茹る音がする。とんとんと包丁が肉を切る音がする。テーブルに座ると、思い出したように母が話し始めた。
そうだ、上の階のね、小学生の時に仲良かった子、いるじゃない。年の割には背の低い子で、声も高かったかしら。男の子なのにいつまでも低学年みたいだわ、なんて、貴女いつもからかってたでしょう。名前、なんだったかしら。駄目ね、お母さんずっと働いてたから、娘と仲良しだった子の名前も思い出せないわ。最近じゃ話題にも……無理もないわね、だって貴女……。あれからずっと気に病んでたでしょう。誰も貴女を悪いなんて思ってないのに。あれは本当に事故だったと思うの。相手方の御両親だってそう言ってたじゃない。だからね、今週末、あの子の七回忌をするからって。ねえ、つかさ――
「知らない」
酷く、耳鳴りがした。
ずっと待っていた夏休みの初日は、あれだけ続いた雨が嘘のように晴れ渡っていた。朝からクーラーをつけた我が家のフローリングは冷たく冷えていた。制服に比べれば随分と薄着な半袖から出た腕にうっすらと鳥肌が起こる。適当なサンダルに足を掛け、外に出ると、脳を射抜くように蝉の叫び声が響く。久しぶりに当たった真っ直ぐな太陽の日差しに眩暈がした。緩い坂道に差し掛かり、顔を上げれば、其処に少年がいた。こちらにランドセルを向けて、鳴ってもいない踏切の前で立っていた。どうして今まで忘れていたのだろう。六年前もそうやって立っていたのだ。私が追いつくまで、待っていた。いつものように幼い容姿をからかった私への仕返しに、私の御守りを奪って悪戯に笑っていた。
振り向かない後ろ姿に一歩ずつ近づく。これまでにないくらい、近くに少年がいた。私の胸辺りの位置に頭がある。
「翔太」
ぽそりと呟くように呼べば、ほとんど同時に警報機が甲高く鳴り響いて、ゆっくりと小さな体が振り向いた。丸い瞳が楽しそうに細められて、少しだけ大きめの口から歯を見せて笑った。その手には私の御守りが握られていて、取ってみろと言わんばかりに大きく腕を上げる。思わず触れようとして、右手を伸ばした。
「翔太」
「つかさが悪いんだ」
そう言って、翔太の体がぐらりと揺れた。耳を突き続ける警報音に、迫る電車の大きな音が混ざる。重そうなランドセルがくっついた背中が遮断機を越えて、線路に転げたとき、容赦なく電車がその上を走り去った。
遮断機が上がった時、そこには何も残っていなかった。鈴の音と、高めの声が耳に残っている。六年前と同じ、蝉の啼き声が遠く聞こえる。
それだけがただ、確実に、ゆっくりと、私の首を絞めていた。
2014'08'02