短編

小さな旅をしよう


私の家はみんなから羨ましいって言ってもらえるくらいほのぼのとした家庭で、
両親が若く、優しいお父さんとかわいいお母さんというのが自慢できるほどだった。
お父さんはいつも私を大切にしていてくれたしお母さんはいつも私を大事の思ってくれていたけれど。
だけど私が小学校二年の頃にいきなりお母さんが何処かに消えてしまった。
お父さんは優しい目を悲しそうに垂れさせながら、「出て行っちゃったんだよ」って言ったけれど、
小学生の私にわかる筈もなく、ただ頷くばかりだったわけで。
もう優しい家庭は戻ってこないのだと、わからなかった。
わからなかったんだ。




中学の入学式が終わったあと、真新しい制服のままお父さんと近くの洋食屋さんへと向かう。
中学一年生の親にしては随分若いお父さんだけれど、でも頑張ってくれていて頼もしい。
ときどきちょっと抜けているのが、我が父ながら面白いと思う。
洋食屋の軽いドアを開けると涼やかな音と共に店内のジャズが耳に入った。
母が家を出て行ってから外食をするのはとても久々のように感じる。
父もそうだったようで、年よりも若く見えるその顔をとても嬉しそうにほころばせていた。
私がデミグラスハンバーグを頼むと「まだ子供っぽいよね」と嫌味くさい言葉をあびせてくるが、不思議と嫌な感じはしない。
その癖、トマトチーズハンバーグを頼むあたり父もまだ子供なのだと思っておかしくなった。
程よい沈黙のあと、私はずっと思っていたことを聞くことにする。

「お父さん、お母さんは何処に行ったの?」

あの日、母が出て行った日、まったく同じことを父に聞いた気がする。
その時の父の顔があまりにも悲しくて寂しくて、二度と聞けなかった言葉。
だけど今、もう一度聞こう。

「何処に、行ったの?」

視線を逸らさず繰り返す。
父は今、眼鏡の奥の瞳で私を見つめながら何を考えているのだろう。
明らかな困惑の色が伺えた。
少しだけ後悔するけれど、これは聞いておかねばならないと思ったのだ。


数分間の沈黙が続く。


店員が少し気まずそうに二人分のハンバーグを持ってきて、やっと父は口を開いた。
私から目線を逸らして、フォークとナイフでハンバーグを突っつく。
私は一言も聞き逃すまいと手を膝に置いたままだ。

「出て行っちゃったんだよ。」

父は五年前と同じ言葉を言う。
さっきの私みたいに。

「仲が悪くなったわけじゃない。でもなんていうかな、ずっと同じ雰囲気ではいられなかったんだ。」
「…どういうこと?」
「佳奈美、こんなことは言いたくないけれど、お母さんはたぶん疲れたんだと思うよ。
すごく若くしてお前を産んで、まだ未熟のままお前を育て続けたんだ。」

父は俯いてハンバーグを無駄に切り刻みながら顔をあげない。
恐らくあのときみたいに悲しい顔をしているのだろうな、と思った。
私も私で顔をあげられなかった。
つまり母は私に嫌気がさしてしまったのだ。そりゃあそうだろう。
19歳で育児をはじめてそのまま8年間私を育て続けたのだから。
いくら優しい雰囲気の家庭を″造って″いても、母は疲れるだろう。
母に、謝りたかった。

父の皿が空っぽになる寸前、私の皿の上はまだ何も手をつけられてはいなかった。
何故だか無性に悲しくて、つらくて、悔しい。
父は綺麗にハンバーグを食べたあと、俯いたままの私に話しかける。

「…いらないんだったら食べるぞ。」
「…ん。」
「……なあ、父さんはさ、佳奈美がいて疲れることなんてないし、すごく楽しいし、感謝してる。
佳奈美はどうなの?父さんと二人じゃ面白くなかった?不満?」

きっと今顔をあげると優しい顔をした父が微笑んでいて、それでいて困った顔をしてるに違いない。
でももちろん私は父といて不満なことなんてなかったし、それなりに楽しかった。
母がいなくてたまに困ることもあったけれど、父がいてくれて本当によかったと思う。 だから私は首を横に振った。

「だったらいいじゃないか。」

父の嬉しそうな声が、聞こえた。


ただそれだけのやり取りがすごく嬉しくて。
なんだかよくわからないけど私は泣いてしまっていた。
冷めきったハンバーグを涙と一緒に食べた。
真新しい制服にはハンバーグのソースが落ちてしまったし、涙のあとはくっきりと顔に残ってしまった。
父はそれを笑いながら見ていて、コーヒーを運んできた店員もなんだかおかしそうに私を見て微笑んだ。
私が食べ終わる頃には店の中はとっくにすっからかんで、時間も三時をまわっていたけれど。

それでもいいと思えた。

店内のジャズは止むことなく軽やかに流れていて、店員たちの視線はすごく暖かくて。
私たちのまわりは不思議とすごく温かい。
父と帰り道を歩きながら、「今度はあったかいハンバーグを食べよう」と、またこの店に来ることを話した。



2009'05'26
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