長編

nobody knows
01


 俯く目の前の女性から紡がれた声は、平坦で、抑揚のない機械的な声だった。謝るべき場面だから謝っている。そう主張するような声色に、苛立ちよりも絶望が体を駆け巡った。先程説明された文章を何度も何度も脳内で再生する。嗚呼、なんということだろう。声も出せずに、情けなさばかりが募る。

「ごめんなさい」

 もう一度呟き、彼女はカフェの席を立つ。バッグの中をごそごそと漁り、綺麗な長財布からほとんど口をつけていないコーヒー代を出してテーブルに置いた。そのまま彼女は茫然とする青年に一瞥もくれず、静かに出ていった。テーブルに置かれた小銭が妙に虚しさを増させる。青年は自分の分のコーヒーを飲み干し、ゆっくりと自分も席を立った。伝票と小銭を引っ掴み、レジへと向かう。丁寧な対応をするアルバイトらしき少年も、さっきの彼女のようにまた機械的な言葉を吐きだしている。そんな些細なことにも彼女を重ね合わせている自分に多少の苛立ちを覚えながら、青年は出口のドアを開いた。商店街の明かりは周りの黒を緩和させ、努めて明るく街を彩ろうとする。そこでようやっと辺りが暗くなっていることに気付いた。夕日はとっくに沈みきり、夜が始まろうとしていた。

 自分の恋人だった人物は、根っからの箱入り娘だったらしい。先月何も言わずに出向いたお見合いが上手くいきそうなので、自分とは別れてほしい。そう告げられた。
 確かに自分は将来有望なわけでもない、どこにでもありそうな私立大学に通う、そこらへんに転がっていそうな大学生である。だがしかし彼女への愛はあったし、それを隠すようなこともしておらず、なかなかに順調な交際をしてきたつもりだった。実家からの仕送りだけでは足りず、アルバイトをしながら自分の生活と彼女への交際費にあてていた。貧乏だといっても、そういった面は相手に気を使わせまいとやってきたのだ。しかしどうだろう。彼女はほいほいと五つ年の離れた金持ちの元へと行ってしまった。何が悪かったか、何が原因なのか。そんなこと考えたって自分に分かるはずもない。わかっていたらこんな結果にはならなかっただろう。今では、幸せに過ごしてきた彼女との時間も言葉さえも本物であったのか謎だ。彼女にとって自分はどういった存在だったのだろう。年下の、面白くて可愛い馬鹿な子供といったところだったのか。
 勝手に妄想して勝手に苛々し始め、こうではいけない。これだから自分は駄目なのだと一人心を落ち着かせようと努めていると、デパートの前に来ていることに気付いた。大蔵デパート。全国に店舗を広げており、ここらじゃ大きめのデパートだ。そういえばここで彼女と初デートをしたんだっけと思い出に浸れば、自然と足が入り口へと赴く。我ながら女々しいことこの上ないが、今日くらいは許してほしい。明日からまた大学でつまらない講義をノートにとって頑張るからと、誰にでもなく言い訳してデパートの階段をひたすらに昇って行った。

 何も考えずに使った階段は人気が少なかった。各階中央にはエスカレーターがあるし、エレベーターだって二つずつ設置されている。当たり前と言えば当たり前のことだ。非常にゆったりとした歩調で進んでいるせいか苦痛というわけではなかったが、大学に入ってからというもの運動をあまりしておらず、少し足に響く。今参加しているサークルのほかに、運動系のサークルにでも入ろうかなあと考えさせられた。
 最上階である十階に着いたが、もう一つ階段がある。少しだけ離れた場所に作られた、屋上へと続く階段だ。
 本来こういった階段はチェーンか何かで立ち入り禁止にすべきなのだろうが、ここのデパートでは“屋上の遊園地”の名残かあまり厳しくしていない。綺麗に管理されているし、一角には花壇もある。木製のベンチは休憩するには最適だった。彼女とは行ったことはないが、友人と時折行くことがある。大学生男子がデパートの屋上でなんてつまらないのだろう、と言う人もいるかもしれないが、如何せんそいつは物好きな奴なのだ。昼間は太陽に近く、夕方には花壇が燃え、夜には煌々と輝く月が綺麗だと言っていた。あとごった返した街を見下げてやれるのも気分が良いと。
 友人の特徴的な細い眼と人を嫌う様を思い出し、少し可笑しくなって笑った。明日は飲みに付き合ってもらおうとも思った。屋上への階段を踏む靴音だけが響き、ギィ、とガラス張りの扉を開く。
 真っ直ぐに見る。自分の腰辺りまでしかない低いフェンスが屋上を囲み、ザァと風が吹き花壇が揺れる。そのフェンスの向こう側に、セーラー服を着た少女が、こちらを背にして立っていた。

 思わず目を見開く。どうしたことだ。少女の体はぐらりと揺れて、その身を何メートルも先にあるコンクリートの地面に叩きつけようと身を投じかけて――

「っおい!」

 咄嗟に走っていた自分に感謝すべきだろう。先程まで疲れて力の入っていなかった足は軽く駆け出して少女の腕をしっかりと引いていた。
 間一髪だった。そういえばこんな低いフェンス、自殺には恰好の場所ではないか。今目の前で起ころうとしていた現実に、心臓がばくばくと脈打つ。対して当事者である筈の少女は極めて冷静なようで、緩慢な動きで見つめてきた。
 捉えた瞳に生気はなかった。本当に生きているのか、もう既に死んでいるのではないかと疑うほどに。悪寒のようなものが奔り、今自分が掴んでいる筈の少女の存在を不気味に思わせる。思わず腕を離したくなったが、今離してしまえば確実にこの少女は死ぬだろうと思い、どうにか手に力を込める。
 途端、少女の瞳に生気が戻った。まるで誰かが今この瞬間に魂を吹き込んでいったかのように。さらりとした弱い風が吹いたあと、我に返ったかのように少女は「ああ!」と言ってフェンスを乗り越え、こちらの安全圏へと戻ってきたのだ。
 あまりに突拍子もなかったその行動を見てぽかんと呆気にとられる。恐る恐る腕を離すと、もう飛び降りようとする気がサラサラないことに気付いた。溜息をつく少女の顔には笑みが浮かべられているし、風で乱れた髪を気にする様子は普通に日々を謳歌している女子高生そのものだ。
 ぽけーっと見つめていると、不意に目を合わせられた。目が合った途端にこっと笑みを深くした少女は、快活な声で笑う。

「うにゃははは、止められてしまいましたな!」

 失敗失敗、となんでもないことのように言い放つ。手を頭の後ろにまわして実に爽やかな笑顔で少女は笑い飛ばしていた。大きく弧を描く口からは白く並びの良い歯が覗き、ちらりと八重歯があるのが見えた。丸い瞳は何処かおどけたように細められている。未だ風の強い屋上で目の前の少女は真っ直ぐに俺の目を見つめ、やがて更に目を細める。
 
「おにーさん御一人様?なんでもするから、お家に泊めておーくれっ」

語尾に音符がつきそうなくらい上機嫌な様子でにしし、と彼女は笑った。突然の申し出に頭が働かない。いま、この思春期真っ盛りっぽい雰囲気を漂わせるこの子は、何と言った?

「は…」
「おにーさんお家何処?さっすがの私も寒くなってきちゃった!」

 両手で自分を抱くようにして少女が俺の横に並ぶ。頭一つ分低いその横顔は、何度も言うが普通の少女で――。
 ふつう、か?


 かくして俺と謎の女子高生の同居生活が始まってしまったのだった。



2011'03'18
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