長編

nobody knows
02


 名を稲瀬由麻と名乗った。
 家はどうした、何故ひとりなんだと聞いても話を逸らすばかり。仕方がないので連れて帰ってきてしまった。夕飯を出せば帰るのではないかと考えたが、夕飯らしい夕飯もなく、ここは嫌味も込めて茶漬けを一杯出すことにする。

「ねーねー、おにーさん。晩御飯こんだけ?」
「おにーさんじゃない。塚本匡だ」
「たっくん」
「誰がたっくんだ」

 眉根を寄せたかと思うとすぐに笑顔になり、別にいーけどね、と笑いつつ由麻はぺろりと茶漬けを平らげてしまったのだった。ミディアムの綺麗な黒髪を揺らしつつ、俺の部屋を忙しなく見まわすその表情は、新居を選びに中古物件を見に来た学生のようで、茶漬けを出したことも嫌味と受け取られていないらしい。少々遠まわし過ぎただろうか。しかし、ここで引き下がってこの怪しい少女を泊まらせ、何か重大な事件にでも関わってしまったらそれこそシャレにならない。何が何でも由麻を家に帰らすべきだろう。大体、こいつはさっきまで自殺しようとしていたのではないのか。なんなんだこの豹変ぶりは。

「お前、家帰らなくていいの?てか何で泊まるとか言ってんの?」
「え、だって家誰もいないし。一人じゃ寂しいじゃん」

 あっけらかんと答える。当たり前だろう、とでも言いそうな勢いだ。あまりにも簡潔、且つ子供らしい答えに思わず意識が遠のきそうになる。自分はなんと可笑しな奴に絡まれてしまったんだろうと、今更カフェから真っ直ぐ帰宅しなかったことを後悔してしまった。
 だがしかし、俺がもしデパートに寄っていなければ、目の前でへらへらと笑うこいつは今頃アスファルトの地面で潰れ、世間を騒がしていただろう。トマトを思い切り壁へと投げ付けたような……我ながら想像するものがおぞましくて身震いする。自殺していなかったとしても由麻がちゃんと帰宅したと考えるのは難しい。それに、女の子が寂しいと言っていて、こんな夜に追い返すのはあまりにも人間としてどうなのだろうと思いなおした。結果的に自分のやったことはプラスなことだったんじゃないかと、半ば自分に言い聞かせるようにして納得する。
 しょうがない。確かに世間体を考えれば若い男女が二人で狭いマンションの一室に一晩同じというのは些か問題があるようにも思えるが、よくよく考えてみれば俺にそういう気がさらさらないのだ。大体、大好きだった彼女に振られたその晩、他の女(しかも高校生だ)に手を出す気にはならない。

「あっ、でもたっくんもしかして彼女いたりする?だったらさすがにやっばいよね」

 あっさり地雷踏みやがったこいつ。
 その表情に悪気はない。あるはずがない。だってこいつは今さっき知り合ったからだ。しかし、まるでちょっとした悪戯を成功させたあとのような笑顔に何故か既視感を覚えた。
 どこか腑に落ちないながらも、黙っていたら由麻が首を傾げてきたので嫌々事情を説明する。俺の話を黙って聞いていた由麻は、初めは目を丸め、次に深刻そうな顔になり、最後にはにやにやといやらしい笑みを浮かべていた。どうしよう、殴りたい。

「むふふ、まー人生いろいろありますがな!私と出会えたんだからいーんじゃん?」
「どういう発想の転換だよ。あいつとお前じゃ全然ちげえよ」

 両手の人差し指をピンとたててクルクルとまわしつつ、ニコニコと俺との出会いを喜ばしそうに語る。俺からしてみれば遭遇だとか、運の悪い偶然だとか、そういった類で語ることはできても、胸を張って出会いなどというさも素敵なエピソードが付属しそうな単語は使えない。使いたくない。
 由麻は気にしていないのか、そういったように見せているだけなのか、自分が飛び降り自殺を謀ろうとしていた素振りを一切見せない。余程触れられたくないことなのか。はたまた、ただ単に能天気が過ぎる性格なのか。しかし、あの屋上で見せた異質な雰囲気や生気を漂わせない表情。こちらまで生きた心地のしなくなる冷たい手首。あれが、思春期から来る突発的な行動や思いつきだとは思い難い。それでも、身振り手振りを使って楽しそうに話すこの空気を壊したくなくて、俺は口を噤んだ。何より、理由を聞けば由麻はまたあのときの冷たい少女に戻ってしまうような気がして、俺は怖かったのだ。
 話したくないのなら、聞かないでおこう。聞いたところで自分が言えることは何もないと思った。

「たっくん、明日学校だいじょぶ?」

 ふと、時計を見上げながら由麻が訪ねた。針はちょうど十二時を示しており、日付が変わったことを告げる。
 確か明日は三限からのはずだが、呑気に学校など行ってもよいものか。この状況をまるで日常のように扱ってもいいのだろうか。いや、駄目だろう。自分の中の何か本能に近い部分がNOサインを出す。とりあえず、明日は由麻にかかりっきりにすることにしよう。

「うへえ、そんなに気ぃ遣われたら照れますなあ」

 真剣に照れていた。つくづく何処かズレている。
 それから由麻は喋った。俺も喋った。友達のことや学校のこと。いけすかない先生のこと。最近興味のあること。この前楽しかったこと。昔から知っていた仲のように俺らは話した。そしてわかったことは、由麻は見たまんまの奴だということだけであった。
 呆れつつも、楽しんでいる自分に気付いたのは、夜が明けて外から集団登校で騒ぐ小学生の声が聞こえてくる頃のこと。



2011'03'24
Copyright(C)2014 aobayashi All rights reserved.  designed by flower&clover