長編

nobody knows
03


 ふにゃり、と何かが崩れるように笑うその顔を、一体俺は何処で見たのだろう。広い空を背景に、澄んだ空気と、寝転がった背中にさわさわと柔らかく敷かれた草花が俺の瞼の裏を覆うのだ。そして最後に映る暖かく晴れた笑顔を、俺は思い出すことが出来ない。



「たっくん、もう昼過ぎてますよおう。お寝坊さんですななななな?」

 夢を守る瞼を開けば、ぼやける視界に映るのは柔らかい笑顔ではなく由麻の不気味なニヤケ面だった。ついでに意味のわからないグッドモーニングまで聞こえてきた。
 結局朝まで喋り通しだった俺たちは一度休戦すべく、空腹を訴えようと締めつける胃を捻じ伏せ、二人して床に転がったのだ。昨日は午前中大学で講義を受け、午後からはバイトをこなし、その後彼女に呼び出されて振られたあげく由麻という奇妙な拾いものをしてしまった。疲労は実感よりも溜まっていたようで、瞳を閉じてから何かを考えた記憶がない。脳味噌は貪欲なほど睡眠を求めており、案の定由麻に起こされるまで意識を飛ばしていたというわけだ。
 タンスの上に置かれた時計に目をやると、長い針は一と二の間を、短い針は八と九の間を示している。ということは、六時間近くも寝ていたのか。昼過ぎに起きるなんて、久々だ。必修の講義がいつも午前中にあるからである。眠い目を擦りながら聞き流す講義に果たして意味などあるのか、二十歳をこえたばかりの俺にはわからない。
 しばらく麻痺していた頭が醒め始めると面白いほど大きな音を立てて腹は鳴った。どうやら由麻も相当腹を空かせていたらしく、二人で顔を見合わせて笑った。何か勝手に食べてもよかったのにと言えば、申し訳なさそうに由麻は「何もないんだもの」と呟く。
 言われてみればここ最近まともに買い物なんてしていない。だから昨日も嫌味の意味以外に、ただ純粋に茶漬けぐらいしか出すものがなかったのだ。ずっとバイト先でまかないを貰っているから別段飯に困るというわけでもなかった。金を貯めて、彼女に初めての指輪を買ってやろうと、思案していたのだった。腹が立つことに、もうすぐ目標金額に達しそうな十何枚かの諭吉たちは使い道を失って、銀行の金庫で寂しく眠っているということになる。

「……飯、食いに行くか」

ちらり、横目で黒髪を見れば、案の定おおきな目を爛々と輝かせている。見つめられた頬が痛い。穴が空きそうだ。
 引き出しの再奥から引っ張り出した通帳を、すっかり使い古してしまったウエストバッグへと素早く押し込む。彼女関係の金以外にも実家からの仕送りや、生活費の貯金などにも使われているこの通帳は結構な金額が入っている。普段から倹約してる努力の賜物なのだ。いくらなんでも会ったばかりの由麻に見られるわけにはいかない。銀行に寄る際にも、細心の注意を払おうと無駄に意気込んだ。一応確認した財布の中身は、千円札が一枚しか入っていなかった。


「ねえねえたっくんたっくん」
「たっくんはやめろって言ってるだろ、由麻」
「真昼間から何食べようか、ねえ!私ねっ、好き嫌いしないから何でも食べられるよっほ!」

 俺の注意を華麗に受け流し、歩道と車道の間に鎮座するブロックの上を危なっかしく歩いて行く。
 結局、家を出るや否や銀行へと直行した俺に由麻は「言っておくけど」と頬を膨らましながらこう言った。

「私だってね、初対面の人の預金通帳を勝手に覗く趣味はないのよ」

初対面の男の家に転がり込んで一晩明かした奴が何言ってるんだ、と思ったが、案外真面目なことに素直に感心した。
 またその時、ふざけた口調は些かトーンを落とし、上目づかいで睨んでくる由麻を見て、こいつは馬鹿な振りをしているだけなのだと、確信したのだ。もちろん朗らかな性格や、能天気な表情までもが嘘だと思ったわけではない。しかし、屋上で見たあの冷たい少女は、確かにそこにいるのだと思った。それを隠すために、不自然なまでのふざけ方をしている。恐らく本人も無意識のうちに、だ。
 由麻に聞きたいこと、聞かねばならないことは山ほどあると、このとき再確認させられた。
 俺の数歩前を、未だブロックに乗りながら進んでいるセーラー服の後ろ姿にぽつぽつと話しかける。なんとなく手持無沙汰で、両手をジャケットのポケットへと突っ込んだ。

「俺、お前と会ったばっかだけどさ―…」

 そのとき、一際大きく由麻の体が揺れた。ぐらり、と、まるで昨夜のデジャヴのように。
 車道側へ、傾いた。
 伸ばせばあっさり届くはずの手は布に遮られ、摩擦を起こし、曲げた肘を伸ばして縮んだ筋肉が緩みきる前に、俺の手は寸でのところで由麻の腕へと到達しようとしていた。
 瞬間、くるりとこちらに胸を向けた由麻によって、手は腕を掠め赤いスカーフを掴み、由麻は車が行き交うコンクリートに打ち付けられたのだった。



2011'03'19
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